建築が私の真ん中にはないこと

 

 

 

 

ついこの前、

Fランと言われる大学を難なく卒業した。

 

 

思い入れのあまりない大学。

 

最後の一年で友達との間に不穏な空気が流れるいい思い出。

 

いつだって

 

友達との不仲は男関係。

 

 

 

なぜ、恋愛感情が入ると、友情はもろくも崩れさるのか?

 

いやまあもとからひびだらけだったわけだけども、最後の一撃がそれというわけだ。

 

 

 

それについても今度考えよう。

 

 

 

 

 

建築はこの4年間、嫌いになり、楽しくなり、

好きになったけれども、一度も私の真ん中にはなかった。

 

別に、しけてるわけでもバカにしてるわけでもない。

 

ただ私の1番じゃなかっただけ

 

 

 

 

 

そんなのざらにあること

 

やってみたことが好きとは限らないのは当たり前である。

 

 

やってみたなかで学んだことを活かすかどうかも自分次第。

 

 

 

 

この大学4年間を振り返って

人に期待しちゃいけないということを

肝に命じておこう。

 

 

 

 

思い入れがないと言いながら

実はゼミの打ち上げでただ一人泣いた

 

泣こうとも思ってなければ泣きたくなどなかったがただ悔しかったことを口にしたら勝手に泣けてきた

 

 

泣くから言いたかったこと全然言えなくて後から後悔したけど

 

 

 

卒業式から謝恩会、ゼミの打ち上げ

次の日の朝には神戸へ出て、日曜日の夕方帰ってきた

 

そして月曜日から東京

 

 

 

 

 

 

某建築事務所でトライアルなう

 

 

 

 

結局建築学んでる。

 

 

 

 

 

 

じゃあ私の真ん中にあることはなんだ?

建築は私の中のどこにあるんだ?

 

 

 

それに今

 

 

答えるとするならば

 

真ん中には何もなくて

 

建築は、

敢えて言えばドーナツのひとかけというとこ

 

 

 

 

 

多分

 

 

まだ真ん中はない

 

 

 

 

デザインすることは嫌いじゃないから

頑張って学んでいきたい

 

 

うまくいけば充分だし、

うまくいかなければ趣味で作ってmi○neで売って楽しむよ

 

 

 

 

学んでも学ばなくても

思いや考えは伝わる

 

大事なのはそこに詰まっているもので

 

知識をもって向き合うか

感情をもって向き合うか

 

 

それぐらいの違い

 

 

 

 

 

 

 

 

大事なのは

 

 

 

「思っているか」

 

 

 

知識ばかり詰め込んでも思いがなければ意味はないし、知識を諦めて開き直ればその感じは伝わる。

 

 

 

 

 

私が大事にしてるのは

 

 

思想や感性、人情などの至極人間的な部分

 

 

単純だけど大事で、

古くから日本人が大事にしてきた

美しき関係性だと私は思う

 

 

 

 

正直に、素直に、自分と他人と

人間と、世界と向き合っていられれば

真ん中はいつか見つかると思う

 

 

死ぬまでに見つかってくれればいい

 

 

 

 

 

 

 

建築家はいらない?

 

 

 

 

建築は主張すべきでない?

 

建築家に個性はいらない?

 

 

 

建築家は自己主張が激しいイメージがある

 

これまでの建築がこうであった

だがこれからはこうあるべきである

 

そんな風には言ってないかもしれない

 

僕はこう思ってる

ぐらいにしか言ってないかもしれない

 

 

 

未来のことなんて分からないのに

なぜ語ろうとするのかとも思うが

建築というのは寿命が長いが故に

ある程度は未来を許容できなくてはいけない

 

私の周りでは最近、

「負ける建築」

が割とホットワードというか

時々耳にするんだけど

 

 

もし仮に負けるべきであるとするならば、

果たしてそこまで建築を考える必要があるのかと思うわけですね

 

とは逆に、建築は空間を囲み、空間を生み出したり守ったりすると同時に人間の文明を表す一種の要素であると捉えるならば負けすぎてもいけないとも思える

 

昔の街並みが愛でられることがあるように現代もまた、現代に見合った建築を作るべきではないのかと思う

 

 

それがもし負ける建築であるのだとしたら

バブル期が勝つ時代で、今のような言うなればさとり期は負ける時代?

 

全ての物に固執せず、主張しすぎず、歩調を合わせ、無難にシンプルに

 

それもまた現代の個性となり得るのかな

 

これから数十年後、どういう時代が来るのかは分からないけれど、現代がもし影に隠れてしまったなら、私は悲しいと思う。

 

 

 

答えはわからない。

誰にもわからない。

 

 

けれど人は何かを訴えるために生まれてきて

それが積み重なって今があって

それが続いていって未来があるのだとしたら

何かは残っていってほしいものである。

 

 

主張せずとも、確にここに在った

私たちの生き方が

 

数百年先にも在ってくれたらいいと思う

 

 

 

 

蜜を

 

 

 

最近、感情が高ぶることがあまりない

 

 

冷めてしまった気がして少し悲しい

生気に触れてないからかな

ライブでも見に行こうかな

 

 

 

 

ふと考えると落ち込むことばかり

なんでこんなに悲しいんだろう

なんだこんなに腹が立つんだろう

 

 

好きなものばかりのはずなのに

どうも満たされない

友達にすら劣等感を通してしか見れない

 

 

 

 

やっぱり引きこもるのはよくないな

動いてスカッとするのが

一番手っ取り早い気がする

 

だって最後に汗かいた日が思い出せない

筋肉痛にはなるけど

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうやって歳をとっていくんだなあ

 

みつを

 

 

 

 

例えば私たちはスマホを使いこなす最初の世代

 

 

 

若い人は少なくとも先人を裏切って生きていかないといけない

 

確かに自分よりも長く生きている人はその分苦労も乗り越えてきていて知識も多いだろう

 

ただ、今の時代、今の最先端を使いこなし先鋭をきって生きているのは間違いなく若者だろう

 

 

 

しかし若者たちはそのことに気が付いていない

大人たちが大人たちは偉いという前提で育て教育するからだ

 

 

先人に習えることは今までのこと

 

これからのことは自分たちで学んでいかなくてはならない

そのことに気付いていないのは結構危ない気がする

 

 

 

 

 

どうしたら変えられるだろう

 

そればかり考えている。

 

 

 

明くる日がない、

 

 

 

あけましておめでとうございます。

 

 

 

クリスマスって言ってたら

早々に年が明けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の目標ってわけじゃないけど、

ふと思ったこと

 

 

クレイジーな人になりたい

 

 

 

 

クレイジーな人って恐いけど

エネルギーがすんごい

 

 

こうやって言ってる時点で

私はそういう人間じゃないんだろうけど

でもそうなりたいと思った

 

 

 

 

 

 

社会に出ることすら恐くて仕方ない私が

2017年果たして何ができるんだろうか

 

楽しみである

 

 

 

クリスマスの脅威

 

 

 

最近豪速で過ぎ去る情報に

社会というものを見て

 

 

急に怖くなる

 

 

 

 

 

社会ってこういうふうに出来てるんだって

思うのと同時に社会に負け始めてる

 

 

怖くてどうしょうもない

敵がとてつもなくでかい

 

 

 

 

 

こわくて寂しくて泣きたくなるけど

 

それでも負けたくないと言ってる自分がいる

 

 

と同時に少し迷い始める自分がいる

 

 

 

 

 

 

未来のことなんてわからなくて当たり前なんだ

怖くて当たり前

 

 

それでも頑張って生きるしかないんだ

 

 

 

 

生きるって大変なんだな

 

それでも人間は生かされる理由を探して

まだ迷いながら成長している途中なんだと感じる

 

 

 

 

 

JAPONISM

 

 

 

吐き気がするほど日本人が嫌いだけど

泣きたくなるくらい日本が好き

 

 

 

 

世の中は思ってたより現実的で全然キラキラしてなかったけどそんなに悪いものじゃなかった

 

 

 

 

適度に優しくて適度に冷たい

神様も案外人間的

 

 

 

 

 

 

複雑でいてすごく単純

 

 

 

 

 

 

 

たくさんの矛盾を取り巻いて均衡を保つ

偶然は必然であり必然もまた偶然であること

 

 

 

掴めそうで掴めない

 

 

 

 

 

今もまだ人は発展途上なんだろう