最近気が付いたこと

 

 

 

最近は、もっぱらニート生活を楽しんでいる。

 

もちろん働くつもりはあるので正式にはニートではない。

 

 

 

 

ぼーっとしていて気が付いたこと

 

 

 

 

普段自分は、会話を通して自分が考えていることを整理し、

同時に人の話を聞くことで考えを更新していたらしい。

 

家にいて、ほぼ用事もなく話す相手もいないので、

自分が何を考えているのか全然わからない。

 

 

先々週の東京にいるときからふとノートに思ったことを書き溜めるようになった。

内容が浮かんでくるときは本当に独り言のように書き続けられ、自分は実はおしゃべりなのかもしれないと思った。

 

前からこのブログ(とまでは言えないただの日記)のようなもので書き留めたりはしていたのだが、やっぱり紙媒体にも魅力を感じる。

 

だから無理せず好きな方に書いちゃえということで両方やっている。

 

 

本当は紙に全部書きたいのだけど、つらつら書くわけでもなく、考えたことをまとめたいときは話が先に浮かんでいるので、書いていると忘れていってしまう(笑)

 

学校に通っていてまだ時間に余裕があったころは、友達とあーでもないこーでもないと話していて、シャワーを浴びるときに脳内でそれが再生され、もう一人の自分がまた自分の考えを話し始めて、その時浮かばなかったことが浮かんだりすることがよくあった。

 

だけどお風呂を出るとそれを忘れてしまうことが多くて、どうにかするためにスマホが一番手っ取り早かった(笑)

 

 

 

最近は本当に話す相手がいないので、自分が何を考えていて何がしたいのか全然わからなくて困っている。

 

しかもそれに加え話そうとすれば泣いてしまうので本当に困る(笑)

 

 

どうして泣くんだろう。本当に泣きたくないのに泣けてきて、でも自分で選んだ道だし、なぜ苦しいのかもわからないといったところだ。

 

 

 

その感情を整理したくてこうやって書き出してはみるんだけど、

まああんまり本題じゃないことが多い。

 

 

数か月もすれば事態は進んでいてこんな感情であったことも忘れるんだろうけど、今は本当にその場で足踏みしていて、進んだと思えば戻っているような、そんな気分。

 

本当に”最悪”な気分。

 

 

 

でも今まで人生に後悔したことはないから、まあ大丈夫なんじゃないかと思っている。

もし初めてする後悔、挫折ならば、それはそれでまた成長するんじゃないかな。

まだ20年ちょいしか生きてきてないけど自分がそういう人間であることくらいは自覚していて、信じている。

 

 

この数か月の辛抱がすごく辛いんだろうなと思いながら。

 

 

 

 

 

 

私は臆病者

 

 

 

 

私は臆病者なんです。

 

 

どうしても世間一般の社会には出たくなかった。

 

 

 

 

http://toyokeizai.net/articles/-/166653?page=5

 

 

 

こういう日本の社会がこわくて、嫌いで、

憎くて、変えたくて、仕方がないから

 

 

新しく出来た目標として、会社を立ち上げたいと思った。ただ漠然と。

 

こんな社会を変えたい。

 

私が立ち上げれる頃にはそれが普通になってるのかもしれないけど。

そしたらそれはそれで嬉しい。

 

 

 

 

建築が私の真ん中にはないこと

 

 

 

 

ついこの前、

Fランと言われる大学を難なく卒業した。

 

 

思い入れのあまりない大学。

 

最後の一年で友達との間に不穏な空気が流れるいい思い出。

 

いつだって

 

友達との不仲は男関係。

 

 

 

なぜ、恋愛感情が入ると、友情はもろくも崩れさるのか?

 

いやまあもとからひびだらけだったわけだけども、最後の一撃がそれというわけだ。

 

 

 

それについても今度考えよう。

 

 

 

 

 

建築はこの4年間、嫌いになり、楽しくなり、

好きになったけれども、一度も私の真ん中にはなかった。

 

別に、しけてるわけでもバカにしてるわけでもない。

 

ただ私の1番じゃなかっただけ

 

 

 

 

 

そんなのざらにあること

 

やってみたことが好きとは限らないのは当たり前である。

 

 

やってみたなかで学んだことを活かすかどうかも自分次第。

 

 

 

 

この大学4年間を振り返って

人に期待しちゃいけないということを

肝に命じておこう。

 

 

 

 

思い入れがないと言いながら

実はゼミの打ち上げでただ一人泣いた

 

泣こうとも思ってなければ泣きたくなどなかったがただ悔しかったことを口にしたら勝手に泣けてきた

 

 

泣くから言いたかったこと全然言えなくて後から後悔したけど

 

 

 

卒業式から謝恩会、ゼミの打ち上げ

次の日の朝には神戸へ出て、日曜日の夕方帰ってきた

 

そして月曜日から東京

 

 

 

 

 

 

某建築事務所でトライアルなう

 

 

 

 

結局建築学んでる。

 

 

 

 

 

 

じゃあ私の真ん中にあることはなんだ?

建築は私の中のどこにあるんだ?

 

 

 

それに今

 

 

答えるとするならば

 

真ん中には何もなくて

 

建築は、

敢えて言えばドーナツのひとかけというとこ

 

 

 

 

 

多分

 

 

まだ真ん中はない

 

 

 

 

デザインすることは嫌いじゃないから

頑張って学んでいきたい

 

 

うまくいけば充分だし、

うまくいかなければ趣味で作ってmi○neで売って楽しむよ

 

 

 

 

学んでも学ばなくても

思いや考えは伝わる

 

大事なのはそこに詰まっているもので

 

知識をもって向き合うか

感情をもって向き合うか

 

 

それぐらいの違い

 

 

 

 

 

 

 

 

大事なのは

 

 

 

「思っているか」

 

 

 

知識ばかり詰め込んでも思いがなければ意味はないし、知識を諦めて開き直ればその感じは伝わる。

 

 

 

 

 

私が大事にしてるのは

 

 

思想や感性、人情などの至極人間的な部分

 

 

単純だけど大事で、

古くから日本人が大事にしてきた

美しき関係性だと私は思う

 

 

 

 

正直に、素直に、自分と他人と

人間と、世界と向き合っていられれば

真ん中はいつか見つかると思う

 

 

死ぬまでに見つかってくれればいい

 

 

 

 

 

 

 

建築家はいらない?

 

 

 

 

建築は主張すべきでない?

 

建築家に個性はいらない?

 

 

 

建築家は自己主張が激しいイメージがある

 

これまでの建築がこうであった

だがこれからはこうあるべきである

 

そんな風には言ってないかもしれない

 

僕はこう思ってる

ぐらいにしか言ってないかもしれない

 

 

 

未来のことなんて分からないのに

なぜ語ろうとするのかとも思うが

建築というのは寿命が長いが故に

ある程度は未来を許容できなくてはいけない

 

私の周りでは最近、

「負ける建築」

が割とホットワードというか

時々耳にするんだけど

 

 

もし仮に負けるべきであるとするならば、

果たしてそこまで建築を考える必要があるのかと思うわけですね

 

とは逆に、建築は空間を囲み、空間を生み出したり守ったりすると同時に人間の文明を表す一種の要素であると捉えるならば負けすぎてもいけないとも思える

 

昔の街並みが愛でられることがあるように現代もまた、現代に見合った建築を作るべきではないのかと思う

 

 

それがもし負ける建築であるのだとしたら

バブル期が勝つ時代で、今のような言うなればさとり期は負ける時代?

 

全ての物に固執せず、主張しすぎず、歩調を合わせ、無難にシンプルに

 

それもまた現代の個性となり得るのかな

 

これから数十年後、どういう時代が来るのかは分からないけれど、現代がもし影に隠れてしまったなら、私は悲しいと思う。

 

 

 

答えはわからない。

誰にもわからない。

 

 

けれど人は何かを訴えるために生まれてきて

それが積み重なって今があって

それが続いていって未来があるのだとしたら

何かは残っていってほしいものである。

 

 

主張せずとも、確にここに在った

私たちの生き方が

 

数百年先にも在ってくれたらいいと思う